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長野地方裁判所松本支部 昭和37年(わ)45号 判決

被告人 青沼運平 外十一名

主文

被告人青沼運平を懲役二年に

被告人望月良次を懲役一年に

被告人深沢今雄を懲役四月に

被告人中野英男を懲役八月に

被告人小野慶吾を懲役八月に

被告人春日久夫を懲役三月に

被告人竹村徳永こと鄭徳永を懲役八月に

被告人小田守甲を懲役五月に

被告人百瀬茂夫を懲役五月に

被告人林好男を懲役四月に

それぞれ処する。

この裁判確定の日から、被告人深沢今雄、同中野英男、同小野慶吾、同春日久夫、同鄭徳永、同小田守甲、同百瀬茂夫、同林好男に対し各二年間、被告人望月良次に対し三年間、いずれも右各刑の執行を猶予する。

押収にかゝる物件のうち夏背広上下一着並びに合背広三ツ揃一着(昭和三七年押第三一号の一〇一、一〇二)は(被告人望月良次より)いずれもこれを没収する。

被告人青沼運平から金二百二十八万円を、被告人望月良次から金六万円をそれぞれ追徴する。

訴訟費用中証人小島秀雄に支給した分は被告人青沼運平、同望月良次の連帯負担とし、証人塩沢智礼に支給した分は被告人小田守甲の、証人神原洪に支給した分は被告人林好男の、証人北沢辰雄に支給した分は被告人鄭徳永の、証人荒井幸雄に支給した分は被告人中野英男の、証人小山幸男に支給した分は被告人小野慶吾の、証人堀内藤弥に支給した分は被告人春日久夫の、証人駒津錦一に支給した分は被告人深沢今雄の、証人佐野秀二に支給した分は被告人望月良次の、証人宮沢幸夫に支給した分は被告人百瀬茂夫の、証人宮沢紹人、同宮沢寛美に各支給した分は被告人青沼運平の各負担とする。

被告人野口金一郎、同藤本嘉優はいずれも無罪。

被告人林好男に対する本件公訴事実中、青沼運平に対し、昭和三十五年十二月二十六日頃現金五万円を、昭和三十六年九月十五日頃井上百貨店の商品券三冊(額面合計三万円)を各贈賄した点につき、同被告人は無罪。

被告人青沼運平に対する本件公訴事実中、野口金一郎らから昭和三十六年十二月二十八日頃現金十万円を収賄した点ならびに林好男から、昭和三十五年十二月二十六日頃現金五万円を、昭和三十六年九月十五日頃井上百貨店の商品券三冊(額面合計三万円)を各収賄した点につき、同被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人青沼運平は、昭和六年十月より松本信用金庫の前身である松本信用組合に勤務し、昭和十八年主事補となり昭和二十年三月同組合の主事に昇格し、昭和二十四年五月同組合本町支店長となり、昭和二十六年十月同組合が信用金庫法により松本信用金庫に組織変更したのちも引続き松本信用金庫本町支店長として勤務し、昭和二十七年二月支配人となり、昭和三十年十月には松本市大字北深志大名町七十三番地所在の同金庫本店に戻つて、同金庫本店支配人を兼ねて同本店営業部長となり本店営業部の取扱う貸付業務等同営業部に関する一切の事務を統括処理する職務権限を有し、昭和三十三年五月十六日支配人を解かれて本店営業部長兼務のまゝ同金庫常務理事となり理事長及び専務理事を補佐して同金庫の業務の処理にあたる職務権限を有し、昭和三十四年五月には専務理事代行者となり、昭和三十五年五月十三日同金庫専務理事となつて同金庫業務を統括する理事長を補佐してその業務を執行する職務権限を有し、昭和三十六年五月からは同金庫代表理事を兼ねて理事長職代行となり同年十二月二十二日同金庫理事長となり、昭和三十七年四月二十日その職を辞するまで、同金庫の業務を統括し同金庫を代表する職務権限を有し、いずれもこれらの職務を遂行してきたもの、

被告人望月良次は、昭和三十年一月より右松本信用金庫に勤務し、同月同金庫穂高支店長となり、昭和三十二年九月頃同金庫大町支店長となつたのち、昭和三十三年六月一日同金庫本店営業部次長となり前記本店営業部に関する一切の事務を統括処理する職務権限を有する本店営業部長を補佐してその職務を代理又は代行する職務権限を有し、昭和三十五年四月からは同金庫本部業務課長となつて同金庫各営業店(本店営業部を含む)からの諸貸出に対する(貸出禀議書による)審査等の業務を統括処理する職務権限を有し、いずれもこれらの職務を遂行してきたもの、

被告人深沢今雄は、昭和三十年九月頃より水産物その他の卸販売等を営業の目的とする松本市伊勢町所在の株式会社金登鳥居商店の代表取締役として、昭和三十五年五月小山俊男が右会社の代表取締役社長となつてからは同会社の専務取締役として、同会社の事業全般の経営にあたつていたもの、

被告人中野英男は、終戦後義弟にあたる春日仲一、春日二郎および被告人春日久夫等が長野県上伊那郡赤穂町(現在は駒ヶ根市赤穂)に有限会社春日無線電機商会を設立し、昭和二十五年三月頃同商会が春日無線工業株式会社に組織変更した際同会社の代表取締役社長となり、昭和三十二年に本社を東京都太田区調布千鳥町七十四番地の六に移転したのち昭和三十三年十月頃東京都に住居を移し、昭和三十五年一月同会社名をトリオ株式会社と商号変更したのちも引続き同会社の代表取締役社長として、同会社の事業全般の経営にあたりこれを統括処理しているもの、被告人小野慶吾は昭和二十五年頃右春日無線工業株式会社の監査役となり、同会社が商号変更によりトリオ株式会社となつたのちも引続き同会社の監査役の地位にあつて、同会社が被告人小野や他の株主名を使用し又は被告人中野において松本信用金庫から融資を受けるについてその交渉にあたつてきたもの、

被告人春日久夫は前記春日仲一、春日二郎とともに有限会社春日無線電機商会を設立し、昭和二十五年春日無線工業株式会社に組織変更されてからは同会社の常務取締役となり、昭和三十五年一月同会社名をトリオ株式会社と商号変更したのちも同会社の常務取締役として、その代表取締役社長たる被告人中野を補佐して同会社の業務全般の執行にあたつているもの、

被告人竹村徳永こと鄭徳永は、昭和二十六年五月頃松本市栄町八百四十九番地に建設業を営業の目的とする株式会社竹村組を設立して、同会社の代表取締役社長となり、爾来昭和三十七年一月右会社の代表取締役社長を退任するまで同会社の事業全般の経営にあたりこれを統括処理していたもの、

被告人小田守甲は、松本市大字北深志緑町七十八番地に昭和十三年三月頃から飲食店一平食堂を経営し、昭和二十八年五月これを会社組織にして株式会社一平としてからは同会社の代表取締役社長として、同会社の事業全般の経営にあたりこれを統括処理しているもの、

被告人百瀬茂夫は、昭和二十一年三月頃から土木建築請負業を営む岡谷市所在の岡谷組に勤務し、その後右岡谷組が株式会社岡谷組となつてからは同会社の代表取締役会長野口[言甫]一の女婿として同社の松本出張所長となり、昭和三十年同会社松本出張所が松本営業所となつたのちも昭和三十六年三月頃まで引続き同社松本営業所長をしていたもので、同年三月以降は株式会社松本岡谷組を設立して同会社の代表取締役社長の地位にあるもの、

被告人林好男は昭和二十五年頃から松本市大字桐九百九十七番地所在の木材の販売や製材等を営業の目的とする林興業株式会社の代表取締役として同会社の事業全般の経営にあたりこれを統括処理しているものであるが、

第一、被告人青沼運平、同望月良次は、昭和三十四年六月中旬頃松本市大名町七十二番地所在の松本信用金庫本店において、当時同じく右金庫本店営業部次長の職にあつた山口秀幸と共謀の上、土木建築請負工事の設計施行を営業の目的としていた(松本市城西町三十七番地に事務所を有する)日産建設株式会社の当時代表取締役社長であつた山崎長節、同じくその専務取締役であつた小川勝治、同じくその取締役であつた矢口正雄から、その情を明かして右日産建設株式会社の資本金を金五十万円より金百五十万円に変更登記するため同会社の株式一千株の払込金百万円に充当するための見せ金として使用する金員の融資方の依頼を受けるやこれに応じ、右会社の増資に関する変更登記完了次第これを返済する旨の特約をなさしめ、同月十七日右松本信用金庫本店営業部より山崎長節名義で金百万円の貸付をなし、これを即日同会社の株式払込金として同金庫本店に払込んだように仮装して右山崎長節等に同金庫本店営業部長名義の払込金保管証明書を交付し、同月十九日同会社の増資に関する変更登記が完了するや、翌二十日右株式払込金をもつて前記山崎長節名義の債務の返済に充てさせ、もつて右日産建設株式会社の株金払込の仮装預合に応じ

第二、被告人深沢今雄は前記小山俊男と共謀の上

一、(1) 昭和三十四年八月十日頃当時松本市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人深沢より被告人青沼に対し、右小山俊男が専務理事をしていた松本市西五丁所在の株式会社丸長魚市場が昭和三十三年頃倒産したため、右会社が松本信用金庫に負つていた多額の債務を前記株式会社金登鳥居商店が右会社の倒産の責任を分担する目的で肩代りしたことがあつて、その際同金庫本店より資金の援助を受けたことおよびその後も右株式会社金登鳥居商店が必要とした再建資金や仕入資金等に関し、右松本信用金庫本店より同会社が貸付等の融資を受けまたは手形の割引を受けること等について当時右金庫本店営業部長の職にあつた被告人青沼運平の前記職務上より種々の配慮を受けて世話になり好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金二万円を供与し

(2) 同年十二月下旬頃右同所において、被告人深沢より被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金二万円を供与し、

(3) 昭和三十五年八月十日頃右同所において、被告人深沢より被告人青沼に対し、当時同金庫専務理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より前記株式会社金登鳥居商店に対する貸付等の融資につき、前記(1)に記載のように種々の配慮を受けて世話になり好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金二万円を供与し

(4) 同年十二月下旬頃前記被告人青沼の肩書住居たる松本市大字北深志二の丸町三十四番地の三の新居において、被告人深沢より被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金二万円を供与し

(5) 昭和三十六年八月十日頃右同所において、被告人深沢より被告人青沼に対し、当時同金庫代表理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より前記株式会社金登鳥居商店に対する貸付等の融資につき、前記(1)に記載のように種々の配慮を受けて世話になり好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金二万円を供与し

(6) 同年十二月下旬頃右同所において、被告人深沢より当時同金庫理事長の職にあつた被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金二万円を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

二、(1) 昭和三十四年八月十日頃松本市幸町八百十八番地の被告人望月良次方において、被告人深沢より被告人望月に対し、前記株式会社金登鳥居商店が前記のように同会社の再建資金および仕入資金等に関し、松本信用金庫本店より貸付等の融資や手形の割引等を受けるについて、当時右金庫本店営業部次長の職にあつた被告人望月良次の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金一万円を供与し

(2) 同年十二月下旬頃右同所において、被告人深沢より被告人望月に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金一万円を供与し

(3) 昭和三十五年八月十日頃右同所において、被告人深沢より被告人望月に対し、当時同金庫本部業務課長の職にあつた被告人望月の前記職務上より前記株式会社金登鳥居商店に対する貸付等の融資につき、種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金一万円を供与し

(4) 同年十二月下旬頃右同所において、被告人深沢より被告人望月に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金一万円を供与し

もつてそれぞれ被告人望月良次の前記各職務に関して賄賂を供与し

第三、被告人中野英男、同小野慶吾は共謀の上、

一、昭和三十四年八月中旬頃当時松本市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人小野より被告人青沼に対し、前記トリオ株式会社の商号変更前の春日無線工業株式会社が被告人小野を介して被告人中野、同小野、中野雄、上条義雄、小井戸喜義等の名義で前記松本信用金庫本店より貸付等の融資を受け、また被告人中野が東京都に居住するようになつて松本信用金庫の融資取扱区域外の事業主となつて会員資格を喪失したため、正規に同金庫からの融資は受けられなくなつたのにその後も同被告人において右金庫本店より貸付等の融資を受けたことがあつて、右の各融資を受けるにつき、当時同金庫本店営業部長の職にあつた被告人青沼運平の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金十万円を供与し

二、同年十二月下旬頃右同所において、被告人小野より被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金十万円を供与し

三、昭和三十五年八月十一日頃右同所において、被告人小野より被告人青沼に対し、前記トリオ株式会社が前記松本信用金庫から貸付を受ける資格がないため被告人小野を介して前記のように被告人小野、上条義雄、小井戸喜義等の名義で同金庫本店より貸付等の融資を受け、また被告人中野が個人で右トリオ株式会社の増資払込みのため同金庫本店より受けた貸付等の融資につき、当時同金庫専務理事の職にあつた被告人青沼運平の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金十万円を供与し

四、昭和三十六年一月二十七日頃前記被告人青沼の肩書住居たる同市大字北深志二の丸町三十四番地の三の新居において、被告人小野より被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、新築祝名義で現金十万円を供与し

五、同年八月四日頃右同所において、被告人小野より被告人青沼に対し、当時同金庫の専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より、被告人小野を介して前記三に記載のようにトリオ株式会社および被告人中野に対する貸付等の融資を受けるにつき、種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、中元名義で現金十万円を供与し

六、同年十二月二十五日頃右同所において、被告人小野より被告人青沼に対し、同年十二月二十二日まで同金庫の専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より、被告人小野を介して前記三に記載のようにトリオ株式会社および被告人中野に対する貸付等の融資を受けるにつき、種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および同金庫の理事長となつた被告人青沼の前記職務上より将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、歳暮名義で現金十万円を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

第四、被告人中野英男、同小野慶吾、同春日久夫は共謀の上、昭和三十五年十二月二十三日頃当時同市北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人小野、同春日より被告人青沼に対し、前記トリオ株式会社および被告人中野個人が前記第三の三に記載のように前記松本信用金庫本店より貸付等の融資を受けるにつき、当時同金庫の専務理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、トリオ株式会社役員一同からの寸志名義で現金三十万円を供与し、もつて被告人青沼運平の右職務に関して賄賂を供与し

第五、被告人竹村徳永こと鄭徳永は

一、昭和三十四年八月中旬頃当時同市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人青沼に対し、前記株式会社竹村組は昭和二十七年七月頃から同市大字南深志本町百十五番地所在の松本信用金庫本町支店より貸付等の融資を受けるようになつたが、右融資についてはその頃同金庫本町支店長であつた被告人青沼から種々好意ある取計らいを受けたことがあつて、爾来同会社の経営内容が良好となつて発展するようになつたものの、他方その貸付額も多額のものとなつたところから、同金庫本町支店より貸付等の融資を受けるについて、当時同金庫本店営業部長で同金庫常務理事の職にあつた被告人青沼運平の前記職務上より好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、中元名義で現金五万円を供与し

二、同年十二月下旬頃右同所において、被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金十万円を供与し

三、昭和三十五年八月中旬頃右同所において、被告人青沼に対し、当時同金庫の専務理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より前記株式会社竹村組に対する貸付等の融資につき、前記一に記載のように種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、中元名義で現金十万円を供与し

四、同年十二月二十九日頃前記被告人青沼の肩書住居たる同市大字北深志二の丸町三十四番地の三の新居において、被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で現金十万円を供与し

五、昭和三十六年八月中旬頃右同所において、被告人青沼に対し、当時同金庫の専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の職務上より前記株式会社竹村組に対する貸付等の融資につき、前記一に記載のように好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、中元名義で現金十万円を供与し

六、同年十二月二十九日頃右同所において、被告人青沼に対し、前記株式会社竹村組が引続き前記松本信用金庫本町支店より貸付等の融資を受けるについて、同年十二月二十二日まで同金庫専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の職務上より好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および同金庫理事長となつた被告人青沼の職務上より将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、歳暮名義で現金二十万円を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

第六、被告人小田守甲は

一、昭和三十五年十二月中旬頃当時同市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人青沼に対し、前記株式会社一平が前記松本信用金庫本店より同会社松本駅前支店を設置するに必要な土地代金や設備資金ならびに同市緑町本店に隣接する土地の購入代金等に関し多額にわたる貸付等の融資を受けるについて、当時同金庫専務理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、新築祝名義で現金十万円を供与し

二、昭和三十六年八月下旬頃同市大字北深志緑町七十八番地の被告人小田守甲方自宅において、被告人青沼に対し、当時同金庫専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より前記株式会社一平に対する右一に記載のような貸付等の融資を受けるにつき、種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、現金十万円を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

第七、被告人百瀬茂夫は

一、昭和三十四年八月中旬頃当時同市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人青沼に対し、松本倉庫株式会社において土地購入に関し該代金支払のため昭和三十四年一月頃被告人百瀬およびその義父野口[言甫]一等が前記松本信用金庫本店より多額の貸付融資を受けたことがあり、その返済期日が既に到来しているのに、手形書換の手続等によつて右返済期日の延期の承認を受けたことがあつて、その際右の承認を受けたことおよびその後も被告人百瀬等が更に同金庫よりその返済期日の延期についての承認を受けること等について、当時右金庫本店営業部長の職にあつた被告人青沼の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、現金十万円を供与し

二、昭和三十五年十月下旬頃右同所において、被告人青沼に対し、右一と同様被告人百瀬およびその義父野口[言甫]一等が前記松本信用金庫本店より融資を受けた多額の貸付金の返済に関し、その返済期日の延期の承認を受けること等につき、当時同金庫専務理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、新築祝名義で現金十万円を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

第八、被告人林好男は

一、昭和三十五年六月中旬頃当時同市大字北深志二の丸町三十の二番地にあつた被告人青沼運平の旧自宅において、被告人青沼に対し、前記林興業株式会社は昭和二十八年頃から同市大字南深志本町百十五番地所在の松本信用金庫本町支店より貸付等の融資を受けるようになつたが、右融資についてはその頃同金庫本町支店長であつた被告人青沼から種々好意ある取計らいを受けたことがあつて、爾来同会社の経営内容が良好となつて発展するようになつたものの、他方その貸付額も多額のものとなつたところから、同金庫本町支店より貸付等の融資を受けるについて、当時同金庫専務理事の職にあつた被告人青沼運平の前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、新築祝名義で現金五万円を供与し

二、同年八月八日頃右同所において、被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、中元名義で株式会社井上百貨店の商品券二冊(額面合計金二万円)を供与し

三、同年十二月二十日頃右同所において、被告人青沼に対し、前記の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で株式会社井上百貨店の商品券二冊(額面合計金二万円)を供与し

四、昭和三十六年八月八日頃前記被告人青沼の肩書住居たる同市大字北深志二の丸町三十四番地の三の新居において、被告人青沼に対し、当時同金庫の専務理事で代表理事の職にあつた被告人青沼の前記職務上より前記林興業株式会社に対する貸付等の融資につき、前記一に記載のように種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来もよろしく頼むという趣旨のもとに、中元名義で株式会社井上百貨店の商品券二冊(額面合計金二万円)を供与し

五、同年十二月二十日頃右同所において、被告人青沼に対し、右の趣旨と同様な趣旨のもとに、歳暮名義で株式会社井上百貨店の商品券三冊(額面合計金二万五千円)を供与し

もつてそれぞれ被告人青沼運平の前記各職務に関して賄賂を供与し

第九、被告人青沼運平は

一、前記第二の一の(1)乃至(6)記載の日時場所において、被告人深沢今雄等より同各記載のように六回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨を含めて供与されるものであることを知りながら現金二万円宛合計金十二万円の供与を受け

二、前記第三の一乃至六記載の日時場所において、被告人中野英男、同小野慶吾より同各記載のように六回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金十万円宛合計金六十万円の供与を受け

三、前記第四記載の日時場所において、被告人中野英男、同小野慶吾、同春日久夫より同記載のような趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金三十万円の供与を受け

四、前記第五の一乃至六記載の日時場所において、被告人鄭徳永より同各記載のように六回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨を含めて供与されるものであることを知りながら現金五万円乃至二十万円宛合計金六十五万円の供与を受け

五、前記第六の一および二記載の日時場所において、被告人小田守甲より同各記載のように二回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金十万円宛合計金二十万円の供与を受け

六、前記第七の一および二記載の日時場所において、被告人百瀬茂夫より同各記載のように二回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金十万円宛合計金二十万円の供与を受け

七、前記第八の一乃至五記載の日時場所において、被告人林好男より同各記載のように五回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨を含めて供与されるものであることを知りながら現金五万円および株式会社井上百貨店の商品券九冊(額面合計金八万五千円)計金十三万五千円の供与を受け

もつてそれぞれ同被告人の前記各職務に関して賄賂を収受し

第十、被告人望月良次は、前記第二の二の(1)乃至(4)記載の日時場所において、被告人深沢今雄等より同各記載のように四回にわたり、その都度いずれも同各記載の趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら現金一万円宛合計金四万円の供与を受け、もつて同被告人の前記各職務に関して賄賂を収受し

第十一、被告人青沼運平は

一、昭和三十六年一月下旬頃肩書住居たる同市大字北深志二の丸町三十四番地の三の新居自宅において、岡谷市四千八百九番地所在の株式会社岡谷組取締役会長野口[言甫]一より、同人およびその女婿である百瀬茂夫等が松本倉庫株式会社において土地の購入をなすにあたり前記松本信用金庫本店より多額の貸付融資を受け、その返済期日が既に到来しているのに、手形書換の手続等によつて、その返済期日の延期の承認を受けたことがあつたところから、同金庫よりその返済期日の延期についての承認を受けること等について、被告人青沼の同金庫専務理事としての前記職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに、新築祝名義で供与されるものであることを知りながら現金五万円の供与を受け

二、同年九月上旬頃右自宅において、松本市渚町三百六番地所在の金熊産業株式会社代表取締役社長中島里一より、同人の経営する右会社が昭和三十六年八月下旬頃前記松本信用金庫本店より貸付等の融資を受けるようになつたが、右融資に関し被告人青沼の前記同金庫専務理事ならびに代表理事としての職務上より種々好意ある取計らいを受けたところから、同会社が同金庫本店より貸付等の融資を受けるにつき、被告人青沼の右職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社はやしや百貨店の商品券一冊(額面金一万円)の供与を受け

三、同年十月下旬頃前記自宅において、右中島里一より、右二記載の趣旨と同様な趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社井上百貨店の商品券一冊(額面金一万円)の供与を受け

四、同年十二月中旬頃前記自宅において、右中島里一より、前記二記載の趣旨と同様な趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社井上百貨店の商品券一冊(額面金五千円)の供与を受け

もつてそれぞれ被告人青沼の前記各職務に関して賄賂を収受し

第十二、被告人望月良次は

一、(1) 昭和三十六年九月上旬頃肩書住居たる同市幸町八百十八番地の同被告人自宅において、前記金熊産業株式会社代表取締役社長中島里一より、同人の経営する右会社が前記第十一の二に記載のように前記松本信用金庫本店より貸付等の融資を受けるようになつたが、右融資に関し被告人望月の前記同金庫本部業務課長としての職務上より種々好意ある取計らいを受けたところから、同会社が同金庫本店より貸付等の融資を受けるにつき、被告人望月の右職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社はやしや百貨店の商品券一冊(額面金一万円)の供与を受け

(2) 同年十月下旬頃前記松本信用金庫本店二階において、右中島里一より、右一記載の趣旨と同様な趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社井上百貨店の商品券一冊(額面金五千円)の供与を受け

(3) 同年十二月二十日頃前記自宅において、右中島里一より、前記一記載の趣旨と同様な趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら株式会社井上百貨店の商品券一冊(額面金五千円)の供与を受け

(4) 同年十月下旬頃同市大名町マツイ洋服店こと松井昇方において同市鎌田町所在の日本養魚飼料株式会社取締役社長山崎昌次より、同人ならびに右会社が前記松本信用金庫本店より貸付等の融資を受けるにつき、被告人望月の前記同金庫本部業務課長としての職務上より種々好意ある取計らいを受けたことに対する謝礼および将来も同様な取計らいを受けたい趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら夏背広上下洋服一着(代価金一万三千円相当品)の供与を受け

(5) 昭和三十七年一月上旬頃右松井昇方において、右山崎昌次より右四記載の趣旨と同様な趣旨のもとに供与されるものであることを知りながら合背広三ツ揃洋服一着(代価金一万七千円相当品)の供与を受け

もつてそれぞれ被告人望月の前記職務に関して賄賂を収受し

二、前記松本信用金庫本部業務課長の職務上より同金庫本部出納にかかる同信用金庫の各種事業資金等の保管、管理の業務に従事していたものであるが、被告人望月において他人より預かり保管中の定期預金証書を担保に差入れ借用している金員の返済等に窮した結果、昭和三十七年三月三十一日同金庫本部において、右借用金の返済等に充てる目的をもつて、右業務上保管にかゝる同金庫本部出納の現金中より金六十五万円を壇に引出して着服横領し

たものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人および被告人等の主張に対する判断)

判示各事実についての弁護人および被告人等の主張中、問題となるその主要なものにつき判断する。

一、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律(以下経済罰則整備法と略称する。)第五条の贈賄罪につき、賄賂の供与を受ける松本信用金庫の役職員たる被告人青沼、同望月の職歴の詳細および職務権限に関する認識が事実の認識として必要であるかどうかについて。

経済罰則整備法第五条第一項、第二条前段、同法別表乙号十九の二を綜合すると、信用金庫の役職員に賄賂を供与する罪の構成要件は、経済の統制を目的とする法令により統制に関する業務をなす会社もしくは組合又はこれらに準ずる役員又はその他の職員に対し、その職務に関し賄賂を供与したことを内容とするが、元来犯意の成立に必要な事実の認識については、構成要件に該当する客観的事実の認識があれば足り、構成要件に該当するという法律上の評価を知る必要はないものと解されるところ、本件についてこれをみるに、事実の認識としては賄賂の供与を受けるものが松本信用金庫の役職員であるという認識があれば足りるのであつて、松本信用金庫の役職員につきその職歴の詳細はもとよりその職務権限に関して認識していなかつたとしても、事実の認識に欠けるところはない。

二、経済罰則整備法の適用にあたつては、犯意の内容として同法により処罰されるべき旨の違法性の認識が必要であるかどうかについて。

前掲各証拠によると、被告人深沢、同中野、同小野、同春日、同鄭、同小田、同百瀬および同林はいずれも判示各所為が法規の禁止するところであつて、法規により処罰されるものであることを認識していなかつたことが認められる。しかし犯意の要件として問題となる違法性の認識とは、行為が法規によつて禁止されていることの認識を必要とするのではなく、行為の反社会性たる該行為が社会秩序に違反していることの認識をいうものと解すべきであるから、さらに進んで右被告人等が判示各行為の反社会性を認識していたかどうかを検討することゝする。

右被告人等の検察官に対する各供述調書中には、信用金庫の役職員に金を贈るのは悪いことだと思つていたという趣旨の記載もない訳ではないが、右の趣旨の記載は、たゞ右被告人等が行為の反道義性の認識を示したにすぎないと解せられるから、これをもつて右被告人等において判示各所為の反社会性を認識していたものとは認められず、他に右被告人等が判示各所為の反社会性を認識していたことを認めるに足りる証拠はないので、右被告人等はいずれも判示各所為の違法性を認識していなかつたものと解せられる。

そこで違法性の認識の欠如が直ちに犯意を阻却するものであるかどうかゞ問題となるが、違法性の認識の欠如につき相当の理由がある場合に限つて犯意が阻却されるものと解すべきであるから、右被告人等が違法性を認識しなかつたことにつき相当の理由があつたかどうかについて検討する。

松本信用金庫が信用金庫法により昭和二十六年十月松本信用組合から組織変更されたものであることは、松本信用金庫の登記簿謄本により明らかであつて、信用金庫が国民大衆のために金融の円滑を図り、その貯蓄の増強に資するため共同組織によつてその制度が確立され、金融業務の公共性をもつものであることは信用金庫法第一条に明定するところである。而して同法によれば、信用金庫においてはその会員たる資格を有する者につき地域的な制限があり、常時使用する従業員の数が三百名を超えるものは会員となることができないものとされ、また第三回公判調書中証人小島秀雄の供述記載部分ならびに押収にかゝる業務方法書(昭和三七年押第三一号の一二七)によると、会員以外の者に対しては(員外貸付として)預金又は定期積金の担保以外の貸付は禁ぜられ、更にその貸付の限度についても、業務方法書による自己資金の五分の一を一人に対する貸付限度額としていたが、(昭和三十年一月二十三日付蔵銀第一一三号通達により)預金担保を控除して最高額を金一千万円と改めて以来、昭和三十七年四月二日大蔵省の蔵銀第三六九号通達により最高額が金三千万円とされる迄は 金一千万円を限度としていたものであり当該信用金庫の定款で定められている地区以外の者には(地区外貸付として)、該信用金庫に預金又は定期積金の担保があつても貸付が禁ぜられていることが認められ、加うるに右証人小島秀雄の供述記載部分ならびに押収にかゝる検査報告書綴一綴(昭和三七年押第三一号の一三〇)によると、昭和三十五年二月三日になされた検査報告では純債額が金一千万円を超える貸付と会員勘定の二十パーセントを超える貸付が指摘されており、例えば株式会社金登鳥居商店は金千七百六十九万余円、被告人中野が金千二百五十万円、被告人鄭と株式会社竹村組が(同金庫本町支店にて)合算して金三千三百四十五万円、株式会社一平が金千九百八十九万円、株式会社岡谷組が金千八百万円、林興業株式会社が金千三百八万円と夫々指摘を受け、またトリオ株式会社の前身である春日無線工業株式会社に対する貸付が同日以前の検査において地区外貸付とされていたところ、同日現在においては中野英雄に対する貸付と変更されていたため、同人に対する貸付は地区外貸付として指摘を受けていたものであり、昭和三十六年七月十二日になされた検査の際にも、これらの点についてはその大部分が指摘を受けていたことが認められる。この様ないわゆる大口貸付は前記信用金庫の公共性に少くとも反するものであるから、右大蔵省の通達の範囲内の貸付額になるように貸付を早速に回収すべきであつたのに、前掲各証拠によると、前記金三千万円を貸付限度額と改められた昭和三十七年四月当時において、金登鳥居商店の残高は約金二百三十万円、被告人中野、同小野等の関係において合算して約金二千百万円、被告人鄭の関係において約金五千七百九十万円、被告人小田の関係において約金二千二百五十九万円、被告人百瀬の関係において約金二千七百万円、被告人林の関係において金千六百三十七万円の各残高があつたことが認められるのであるから、前記大蔵省の通達に反した貸付がなされていたものと解することができる。

本件の一件記録を調査しても、前記各被告人等が信用金庫の役職員の法的地位について調査検討したという証拠はない。しかし信用金庫は前記のように金融業務につき公共性をもつ機関であつて、その業務の運営につき多くの法的規整を受けているものであつて、普通銀行とは自らその性質を異にするものであるから、被告人青沼、同望月を除いたその他の被告人等が右業務方法書および大蔵省の通達を認識していなかつたことは弁護人等の主張するとおりではあるが、松本信用金庫の役職員としてまたは同金庫より融資を受けている会員個人(若くは会員たる事業所の代表者)として常に同金庫と密接な関係にあつた同被告人等は一般人に比し特に右のような信用金庫についての金融業務の公共性を十分に認識し、その役職員の法的地位につき十分の調査をつくすべきであつたにもかゝわらず、これらの点につき何等格別の考慮を払うことなく漫然判示各所為をなした同被告人等は違法性の認識を欠いたことにつき相当の理由がなかつたものというべきであるから、同被告人等に経済罰則整備法違反の犯意がなかつたということはできない。従つてこの点に関する弁護人等の各主張はこれを採用しない。

三、被告人深沢、同青沼間ならびに被告人深沢、同望月間の各金員授受の趣旨について。

この点に関し、第一回公判調書中被告人深沢、同青沼、同望月の各供述記載部分によると、被告人深沢、同青沼、同望月ともに各判示第二の一、二の各事実はそのとおり間違いないという供述をし、更に被告人深沢は、「中元又は歳暮名義で被告人青沼、同望月に供与した金員には、多少謝礼とか、将来とも宜敷く取計つてもらいたいという意味も含まれていた」と供述したが、その後の第四回公判調書中被告人深沢の供述記載部分、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人深沢は当公廷において、「青沼、望月が昭和三十年当時から丸長魚市場の負債を私どもが払いよい様に適切にやつてくれたという恩義があつたので、その意味あいで青沼、望月個人に対する純然たる社交上の謝礼という事で贈つたもので、松本信用金庫から平常融資を受けているから、その御礼で贈るという意味はなかつた」と供述し、被告人青沼も当公廷において、「私が丸長の旧債整理に関係して鳥居商店の経営について個人的に相談に乗つたり指導したりしてやつたことについて、その後営業が隆盛となり、卸問屋としても一流となつたことは青沼のお蔭だと逢う毎に感謝の意を表していたので、その感謝の意を現わしたものだと考えていた。」と供述する。(もつとも第九回公判調書中被告人望月の供述記載部分には右判示と同旨の供述が散見される。)しかし被告人深沢の検察官に対する昭和三十七年四月十三日付供述調書では、「青沼、望月にお礼の意味で金を上げたのは、信金の営業部長、同次長としての役職から私の会社などに対する融資などにつきいろいろ世話になり、特にお盆の仕入資金の融資については特別の取計らいをしてもらつた事に対するお礼の趣旨からである。取引先から受取つて信用金庫に割引いて貰つた手形が落ちない場合に、一時信用金庫の金を借りて期日の来た手形を一応落して貰い、別の手形で直ぐまた割引をして貰うという方法を講じて貰い、その一時借入れには、正規の担保を入れないで済むところから、鳥居商店として非常に便宜を受けており、また盆、暮の仕入れ資金についても正規の担保を入れないで手形だけで貸出して貰つた等いろいろ世話になつたが、これらは青沼、望月等の取計らいのおかげである。」旨の供述があり、被告人青沼の検察官に対する同年四月十四日付供述調書では、「これは鳥居商店の再建のために私が尽力して債務の整理をし、金利を安くしたり再建資金も貸すように尽力したので、それに対してお礼をしたいという気持から持つて来たものであると思つた。」旨の供述があり、同被告人の検察官に対する同月十七日付供述調書では、「鳥居商店のような大口の貸出しについては、本部で禀議書による決裁をしているので、鳥居の方でも私に対して引続き盆、暮に持つて来たものと思う。」旨の供述があり、また被告人望月の検察官に対する同月二十日付供述調書にも、右同様貸付に対するお礼の趣旨で貰つた旨の供述がある。

そこで検討するに、被告人深沢と被告人青沼間および被告人深沢と被告人望月間の金員の授受は昭和三十四年八月以降いずれも盆暮の時期になされているが、その金額は一回に被告人青沼につき金二万円、被告人望月につき金一万円であつて、一回に右の各金員を授受するのは、たとえ右被告人等の職業上の地位、収入等を考慮に入れても一般社交儀礼としては通常ではないものというべく、また右被告人等の間に特殊な個人関係があつたとの証拠が全くないので、結局右被告人等の間における融資関係による特殊事情を考慮するときは、右被告人等の検察官に対する前掲各供述調書は十分信憑性があるものというべく、被告人深沢、同青沼の当公廷における各供述は具体性に乏しいものと解される。

右被告人等の前掲各供述調書によると、被告人深沢が判示第二の一、二に各記載の趣旨で各その金員を供与し、被告人青沼、同望月が右のような各趣旨で供与されるものであることを知りながら右各金員を収受した事実を十分認めることができる。

四、被告人中野、同小野と被告人青沼間の金員授受の趣旨ならびに被告人中野、同小野、同春日の被告人青沼に対する金員供与に関する被告人春日の共謀の有無およびその金員授受の趣旨について、

この点に関し、第五回公判調書中被告人中野、同小野、同春日の各供述記載部分によると、被告人中野は当公廷において、「トリオ株式会社ならびに商号変更前の春日無線工業株式会社は松本信用金庫から融資を受けたことはなく、当時右信用金庫から直接融資を受けたのは、中野、小野のほか上条義雄、小井戸喜義等で、トリオは右上条、小井戸や中野、小野およびその友人を介して融資を受けたもので、信金との融資契約の当事者は信金と右各個人であつて、トリオと信金とは融資につき何等の関係もない。各現金十万円を差し上げたのは、従来どおりの儀礼的な贈答と思つていたし、小野と青沼の関係で、特に小野の立場を考慮して小野の顔を立てるという意味合いで贈つた。昭和三十六年一月の現金十万円は青沼から私と妻が招待を受けたので手ぶらで行けないところから持つて行つた。昭和三十五年十二月二十三日の現金三十万円については、歳暮の時期であつたので、それと新築祝を兼ねた。」と供述し、被告人小野は当公廷において、「松本信用金庫から株券を担保に融資を受け、その殆どをトリオ株式会社に貸付けた。青沼に盆、暮に現金を贈つた趣旨は、青沼は交際費も色々必要だからと思つて、援助という意味でやつた。大体盆、暮には一応十万円贈るということは、中野との間で事前事後を問わず暗黙のうちに承知していた。三十万円の分は普段の歳暮が十万円で、新築祝が二十万円である。」と供述し、被告人春日は当公廷において、「昭和三十五年十二月二十三日に贈つた三十万円は歳暮に二十万円を加えたもので、右三十万円については鯛万で相談にのつたが、自分が持つて行つた事はない。」と供述する。また第七回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人青沼も当公廷において、「小野からは盆とか暮には何がしかの品物を届けてくれ、昭和三十四年からは現金になつた。何時ものし袋などに包んで届けてくれたから、私に対する友情の現れとして頂いたもので、信用金庫の貸付等に関係するとは全然思つていない。

建築祝として頂いた時も同様である。トリオ株式会社そのものに貸したことはない。また中野に対する貸付についても純然たる地区外貸付とは心得ていなかつた。トリオ会社のためや中野、小野のために便宜を計つてやつたつもりは全然ない。トリオの人達は松本信金から借りなくても、どこからでも借りられる状態であつたから、金庫のためを計つて貸出しをしているというつもりであつた。従つて私に贈られた金員についても、便宜を計つてやつた御礼などと考える筈がなく、全くの友情として好意的に贈つてくれるものと思つていた。」と供述する。

しかし被告人中野の検察官に対する昭和三十七年四月二十七日付供述調書では、「青沼を通じて信金から貸出限度の一千万円を超える多額の融資を受け、また区域外貸出なのに、信金が私やトリオに対して融資するについて、青沼が特別に便宜を計つてくれた事に対する御礼と将来もよろしく頼むという気持から現金を差し上げていた。」旨の供述があり、同被告人の検察官に対する同年四月二十七日付第二回供述調書では、「昭和三十五年十二月二十三日頃の三十万円は、春日久夫と相談して例年贈る十万円に建築補助費という名目で十万円計二十万円を差上げて日頃の便宜を計つて貰つているお礼をしたいと考え、東京から現金二十万円を用意して松本に来たが、青沼から家を新築したら大変金がかかつたと云われたので、その翌日三十万円にして春日と小野が青沼の家に届けた」旨の供述があり、また同被告人の検察官に対する同月二十八日付第三回A供述調書では、「現在こそ信金に無理を御願いしなくても十分資金の融通がつくようになつたが、発展途上においては普通の取引銀行だけではまかない切れない事情があつたので、私の名前だけでなく、小野の名前や小井戸、上条の名前を借りたりして融資を受けた。」旨の供述があり、被告人小野の検察官に対する同年四月二十四日付供述調書では、「信用金庫から小野、上条、中野、小井戸名義で融資を受けているが、これはトリオの設備資金である。青沼から特別な便宜を計つて貰つて地域外の貸付や一人一千万円の限度以上の貸付をして貰つていたので、その謝礼やこれからも融資をして貰う意味で差上げた。」旨の供述があり、被告人春日の検察官に対する同年四月二十九日付第一回A供述調書では、「中野から時期的な青沼に対するお礼は十万円宛差上げているが、今度は青沼が住宅を新築し金にも困つているようだから、時期的なものに十万円足して平素のお礼をかねて持つて行こうと思うがという趣旨の相談を受けたので、いいでしようといつたところ、中野から松本に一しよに行つてくれと云われたので、当時持つていた手持現金の中から二十万円を持つて中野と二人で松本に来た。青沼から家を新築して意外に金がかかり、予定していた金では都合が悪くなつたという趣旨の話をされたので、そのあとで中野、小野と相談し、青沼には特別にお世話になつているし、これからの事もあるからという事で三十万円贈ることに話がまとまり、小野が十万円を準備し、小野とその日の夕方青沼宅に行つて、私が三十万円入つた包を出して青沼に渡した。」旨の供述があり、被告人青沼の検察官に対する同年四月二十七日付供述調書では、「中野が東京へ移転後も会員名簿から削除せずにそのまま貸付を続け、昭和三十三年、三十四年の検査には財務局からその点を指摘された。昭和三十五年以降は小野、上条義雄、小井戸喜義等の名義を使つて分散貸付をした。小野が中野の方で寄こしたからとつておいてくれといつて持つてきたが、増資の金を心配してやつたりその他運転資金等を融資して上げているお礼の意味でくれたものと思つていた。昭和三十五年十二月二十三日頃小野と春日が旧宅に見えて、新築祝という事で三十万円を贈られたが、春日がトリオの役員としてわずかですが差上げたいと思います云々と述べ、水ひきのかかつたのし袋を差し出したが、この袋には御祝トリオ株式会社役員一同と書いてあつた。」旨供述がある。

そこで検討するに、被告人中野、同小野と被告人青沼および被告人中野、同小野と被告人青沼間の右各金員の授受は新築祝名義で贈られた場合の一回だけを除いてはいずれも盆暮の時期であるが(新築祝として贈られた場合も含めて)一回に現金十万円というような多額の金員を単なる中元、歳暮又は新築祝として個人の立場で授受するのは、たとえ右被告人等の職業上の地位、収入を考慮に入れても、社交儀礼としては通常ではないというべきである。また前掲各証拠によると、松本信用金庫が融資した直接の貸付先は、トリオ株式会社ではなく、被告人中野、同小野、上条義雄、小井戸喜義等であつて、同人等が取引約定書、担保差入書等を松本信用金庫に差入れて融資を受けたものであることが右被告人等およびその弁護人等の主張する通り認められるが、他方被告人中野、同小野等が各個人として松本信用金庫より融資を受けたのは、トリオ株式会社の名で松本信用金庫から直接融資を受ける資格がなかつたところから、右のような方法に出たものであつて、この事は松本信用金庫から融資を受けた被告人中野、同小野等がその融資金額の殆どを直接トリオ株式会社に貸付けており、且つ同会社の銀行勘定帳にこれらの融資金が松本信用金庫よりの借入金として記載されているところから推してみても明らかであり、さらに第三回公判調書中証人小島秀雄の供述記載部分によれば、昭和三十三年、同三十四年の関東財務局の検査の際にも、松本信用金庫は当時の検査官より被告人中野、同小野、上条、小井戸等に対する融資分を全部合算して、トリオ株式会社の関係として同会社が東京都に事業所を有するとして地区外貸付になるとの指摘を受けており、また被告人中野は昭和三十三年五月東京都に居住するようになつたのであるから、その後は同被告人は法律上当然に松本信用金庫の会員たる資格を失い、単に名簿抹消出資金返還の手続が残されているだけで、同金庫からは被告人中野個人に対しては融資をすることはできない筈であることが認められるところ、この点につき被告人青沼の当公判廷における供述(第七回公判調書中同被告人の供述記載)によつても明らかなように、松本信用金庫は被告人中野が東京へ居住後も同被告人の名義で引続き松本在住当時からの取引約定書、担保差入書に基いて融資しており、特に昭和三十六年十月頃には被告人小野から話があつて、被告人中野名義のトリオ株式会社の株券を追加担保として受入れ、而も最初入れた取引約定書等に基く貸付として同被告人名義で二回位に分けて二千万円にも達する融資をしていたものであつて、当時同金庫の専務理事の地位にあり、その後代表理事を兼ねた被告人青沼が、右の様な融資が地区外貸付に該当するところから違法な貸付となることを了知していなかつたとは到底考えられないところであるから(これをもつて純然たる地区外貸付とは心得ていなかつたとする被告人青沼の供述は単なる弁解に過ぎないものと解する)、昭和三十三、四年以降引続き違法な貸付というべき被告人中野に対する融資がなされていたものと解されてもやむを得ないのではないかと思われる。また本件各金員はいずれもトリオ株式会社の裏帳簿から支出されていることが前掲各証拠および被告人春日の当公廷における供述によつて認められるところであつて、被告人小野と同青沼間に友情関係があつたことは被告人小野、同青沼が当公廷で供述するとおりであろうけれども、たとえ右被告人両名間に特殊な個人的関係があつたとしても被告人小野より被告人青沼に対し従来なされてきた中元、歳暮等の贈答に較べて、右トリオ株式会社および被告人中野個人が松本信用金庫より違法の貸付とも見られうるような多額の融資を受けるようになつてから、その贈答の金品が急に本件で問題となつているような金十万円という多額の金額に増え、而もこれが年二回継続的に授受されていたものである点等を考え合せると、右被告人等およびその弁護人等が主張するような盆、暮の儀礼的贈答、又は新築祝のほかに、前記融資についての被告人青沼に対する職務に関する謝礼をも含めて被告人中野等が不可分的に包括して被告人青沼にその各金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知りながらこれを収受したものと認めるのが相当であり、この場合にはその金員全部につき包括して不可分的に賄賂性を帯びるものというべく、以上のような諸点と右被告人等の融資の関係による特殊事情を考慮するときは、被告人中野、同小野および同青沼の検察官に対する前掲各供述調書は、十分信憑性があるものというべく、右被告人等の当公廷における各供述は具体性に乏しいものと解される。

右被告人等の前掲各供述調書によれば、被告人中野、同小野が判示第三の一乃至六記載の趣旨でその各金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知らながら右各金員を収受した事実を認めるに十分である。

また判示第四の事実については、被告人春日の共謀の点が問題となつているが、前掲被告人春日の検察官に対する昭和三十七年四月二十九日付第一回A供述調書で同被告人は前記記載のような供述をしており、さらに同調書には続いて「私が三十万円を持つてタクシーで青沼の家に行く途中、小野からここが青沼の新居だと教えられた記憶がある。青沼宅はその新居の近くでタクシーを降りたところに信濃毎日新聞社があつた様に記憶している。」という記載があつて、被告人春日は検察官に対し被告人青沼の旧自宅に被告人小野とともに金三十万円を持参した際の途中の模様を詳細且つ具体的に供述しており、また被告人小野、同青沼の検察官に対する前掲各供述調書でも前記のように検察官に対して被告人春日が被告人小野とともに被告人青沼の旧自宅に行つているとの事実を認めているのである。

そこで被告人小野、同春日の当公廷における各供述と、同被告人等の検察官に対する右各供述調書とのいずれが信憑性の高いものであるかを検討しなければならないが、前掲被告人小野の検察官に対する昭和三十七年四月二十四日付供述調書第三項では「昭和三十五年十二月下旬頃の現金三十万円は春日久夫と二人で青沼方へ持つて行つたが、直接金を差出したのは春日である。」という記載があり、同被告人の検察官に対する同年四月二十九日付A供述調書においてもほぼ同趣旨の供述をしているのであつて、もし被告人春日が被告人小野と一緒に被告人青沼方に行かなかつたとすれば、被告人小野がわざわざ右のようなことを述べて何等関係のないとされる被告人春日をまきぞいにいれるということは一見考えられないところであり、また被告人春日自身検察官に対して前記のように被告人青沼宅附近の地形を供述しているのであつて、被告人春日が被告人小野と一緒に行つたればこそ松本市内の地形をよく知らないと思われる被告人春日でも右のように供述し得たものというべきであつてその供述には何等不自然なところはないものと解される。

右のような事情を考慮すると、被告人春日が昭和三十五年十二月二十三日頃被告人小野とともに被告人青沼の旧自宅に行つたことがないという被告人春日、同小野の当公廷における各供述は納得しがたく、同被告人等の検察官に対する前掲各供述調書が信憑性の高いものと認めるべきである。

なお判示第四の事実中贈与された現金三十万円につき、右被告人等は当公廷において、うち二十万円は新築祝として、うち十万円は歳暮として差上げたと供述するのであるが、この点も被告人三名とはいえ一回に現金三十万円という多額の金員を授受するのは、歳暮、新築祝を兼ねたものであつたにせよ、前同様の理由により社交儀礼としては通常ではないというべく、さらに被告人中野はその後同被告人の妻とともに被告人青沼より新居の新築祝に招待されたとして、判示第三の四記載のような現金十万円を贈つているというのであるから被告人中野において二重に多額の新築祝を被告人青沼に贈つたというが如き右被告人等の当公廷における各供述は到底納得し難い。結局右被告人中野、同小野、同春日のトリオ株式会社役員としての判示冒頭記載のような地位と被告人青沼の松本信用金庫における前記職業上からする融資の関係による特殊な事情を考慮するときは、被告人春日にも共謀の事実があつたものとして右被告人等の前掲各供述調書の信憑性を認めることができる。

これによれば被告人中野、同小野、同春日が判示第四記載の趣旨でその金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知りながら右金員を収受した事実を認めるに十分である。

五、被告人鄭と被告人青沼の間に金員授受の趣旨について。

この点に関し第六回公判調書中被告人鄭の供述記載部分および第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人鄭は当公廷において、「松本信用金庫本町支店から融資の機会を与えられたことについて青沼を命の恩人だと考えていたので、会社の経営がよくなつたならばその恩を返そうと思つていたところ、その後経営もよくなつたので、贈り物をしたもので、個人として世話になつた恩義に対する返礼であつた。金庫本店詰となつた青沼とは全く交渉なく融資を受けていたもので、その間青沼から融資について便宜を与えて貰つたこともない。」と供述し、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人青沼は当公廷において、「鄭は事業報告を合せ苦労したことと永年の礼を言いに来て、初めのうちは品物だつたが、中元とかお歳暮とか云つて金を持つて来てくれた。首でも吊つて死ななければならないところを助けて頂いたのでこの恩はどんなことがあつても忘れないといつて持つて来たもので、竹村組鄭に対する貸付のお礼とは考えられない。本店に来てからは貸付について鄭から頼まれたことはなく、殊に現場から離れている私に、お礼など持つて来る訳はない。」と供述する。

しかし被告人鄭の検察官に対する昭和三十七年四月二十日付第一回供述調書では、「竹村組の事業資金として高利で金を借り、人夫賃も支払えずにどうにもならなかつたとき、松本信用金庫本町支店に行き、同支店長であつた青沼に事情の詳細を告げて、昭和二十七年七月当初同金庫本町支店より百五十万円の融資を受けたが、その融資の際青沼から受けた好意ある取計らいに有難く感じたので、その時の好意の御礼と、その後無理を御願いする都度引続いて気持よく貸してくれた謝礼および今後もよろしくという意味や、本当の中元、歳暮の意味を含めて差上げた。」旨の供述があり、また被告人青沼の検察官に対する同年四月二十三日付供述調書では、「信用金庫で竹村組に対して多額の金を貸すときには、鄭は本町支店長や次長と一緒に本部に来て顔を出し、私達幹部が会議をして決める間待つて貰つたり、又直接鄭から話を聞いたりしていた。この様なことは年に一、二回あつた。このような金は融資について私にいろいろお世話になり有難かつたというお礼の意味と今後も同様に融資して貰いたいというつもりで持つて来たと思つた。昭和三十四年十二月以降の五回の分の金も、一番最初の三十四年八月の時と同様融資のお礼やこれからもよろしくお願いしますという趣旨でくれたものであることはわかつていたが、つい貰つてしまつた。」旨の供述がある。

なるほど前掲各証拠によれば、被告人鄭がその経営する竹村組の窮状に際し、昭和二十六年頃松本信用金庫本町支店より融資を受けるようになつた後は、右竹村組の事業経営が順調に発展を見るに至り、これに関して被告人青沼に対し報恩の気持があつたことは十分に窺えるが、他方被告人鄭に対する松本信用金庫の貸付は、その業務方法書に定められた会員勘定の二十パーセントをはるかに超えた金額となつている(例えば昭和三十五年二月当時の会員勘定の二十パーセントは約二千二十八万円であるのに、貸付金額は約三千三百四十五万円であり、また昭和三十六年七月当時の会員勘定の二十パーセントは約三千五百七十万円であるのに、その当時の貸付金額は約五千七百四十五万円にも及んでいる)ことが認められるのであつて、このような額に達する貸付がなされているところからしても、右竹村組が同金庫本町支店より融資を受けた当初高利貸に苦しめられていた状態から現在のような経営規模にまで発展するに至つたのについては、同金庫からの融資におうところが多かつたことは否定し得ないところであり、また被告人鄭と同金庫との取引は直接は全部同金庫本町支店でなされており、同金庫本店との取引はなかつたであろうが、本件各金員は被告人青沼が同金庫の本部役員当時に被告人鄭との間に授受されているものであつて、同金庫が右のようないわゆる大口貸付をなすにあたつては当然に同金庫の役員がその審査に関与するだろう位の事は被告人鄭も知つていたものと思われるのであつて、右融資額の余りにも多い点からみても、被告人青沼の同金庫における地位を十分に承知していたものと解される被告人鄭には、後記のような金額の点を考慮すれば、右のような謝恩の気持のみで被告人青沼の右義務に全然無関係で本件各金員の授受が被告人両名間になされたものとみるのは妥当ではなく、本件各金員の授受の時期はいずれも盆暮の時期ではあるが、一回に五万円乃至二十万円の多額の金員を授受するのは、報恩の気持としては通常ではないというべく、被告人両名の職業上の地位、収入等を考慮に入れても到底納得し難い。結局被告人両名の融資上の関係による特殊な事情を考慮するときは、報恩のお礼のほか前記融資についての被告人青沼に対する職務に関する謝礼をも含めて被告人鄭が本件各金員を供与し、被告人青沼においてこれを収受したものというべく、被告人両名の前掲各供述調書の信憑性を認めることができる。これによれば被告人鄭が判示第五の一乃至六記載の趣旨でその各金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知りながら右各金員を収受した事実を認めるに十分である。

六、被告人小田の被告人青沼に対する金員供与の有無ならびに右金員授受の趣旨について。

この点に関し、第一回公判調書中被告人小田の供述記載部分によると、被告人小田は第一回公判の当公廷において、判示第六の一、二の各事実につき、同記載の日時場所で各現金十万円を渡したことはそのとおり間違いないと述べ、その趣旨についても融資に対するお礼の意味も含まれているとしてこれを認めていたが、途中においてその供述を変更し、判示第六の二の事実についてはその授受の事実をも否認し、第六回公判調書中同被告人の供述記載部分によると同被告人は、「昭和三十五年十二月中旬頃に青沼に贈つた金十万円は新築祝と書いたのし袋に入れてこれを青沼宅に持参して、青沼の妻に気持ばかりだが新築のお祝ですといつて差上げたもので、単なる新築祝として贈つたものである。現金としては右の十万円以外に青沼に贈つたことはない。」という趣旨の供述をし、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人青沼は当公廷において、「昭和三十五年十二月中旬頃小田が私の旧家へ訪ねてきて水引をかけて御祝と書いた紙包を差出したので受取り、小田が帰つた後包を開いてみたら十万円入つていたので、翌日金庫で小田にお礼と金高についても話したところ、私の気持としてのおしるしだからというのでそのまま頂戴して、その後小田を新居へ招待した。二回目の十万円は受取つていない。松本警察署で取調べにあたつた係官が交替してしつこく調べるので根気がつきてしまい、遂に事実らしく認めるようになつた。」旨の供述をする。これに対し、被告人小田は同被告人の検察官に対する昭和三十七年四月二十日付供述調書で、「昭和三十五年十二月中旬頃青沼に現金十万円を贈つたのは新築祝となつているが、信金から多額の融資を受けていたので、単なる新築祝でなくて、青沼の世話で信金から融資を受けたお礼や今後もよろしくという意味も含めて贈つた。昭和三十五年八月に緑町の本店に隣接した小柳町の土地約百二十坪家屋等を購入する資金として八百五十万円を借りたので、云々。」との供述し、同被告人の検察官に対する同年四月二十四日付供述調書では、「昭和三十六年八月中旬頃青沼が私の家にきたときに現金十万円を渡した。長男守平が仕事着のまま入つて来てコタツの西側に座つた。中元としてはすでに五千円の商品券を差上げてあるので、普通の儀礼的なものではない」と供述し、同被告人の検察官に対する同月二十六日付供述調書では、「(三十五年)十二月中旬に青沼の旧宅へ行つた際差出した包に寸志と書いたのは、裏の土地を買うときに値段を安くして貰い、金の融通も無理のあるところを貸して貰つているからである。」という記載がある。すなわち被告人小田は検察官に対し被告人青沼との間の金員授受の事実および趣旨を詳細且つ具体的に供述しているのである。また被告人青沼は同被告人の検察官に対する同月二十五日付供述調書で、「一平の社長小田守甲から二回に亘り融資の礼として現金十万円ずつ貰つているが、昭和三十三年春頃一平食堂が松本駅に支店を出すのに土地代金や設備資金等の融資を求められ、昭和三十三年の春から暮にかけて合計二千万円位の金を貸出しており、三十五年春緑町の一平の南側の小平の土地を買うについて同年八月頃八百五十万円の貸付をする事にし、信金で融資した結果小平の土地を買うことができたので、そのお礼としてくれたと思う。」

旨の供述をしている。

そこで検討するに、被告人小田と被告人青沼とが二十有余年の久しきに亘つて交渉があり、右被告人両名が親しく交際していたことは、前掲証拠によつて明らかなところであるから、当裁判所ももとよりこれを否定するものではないが、株式会社一平が現在のような規模に発展して成功を見るに至る迄には、その発展段階において松本信用金庫からの融資におうところが大であつて、被告人青沼からの口添えが与つて多額の融資を得られたこともまた否定し得ないところであつて、その融資についても大口の貸付がなされていたもので、而も被告人小田が当公廷において供述するように親交のある被告人青沼に対し従来盆、暮に贈つていたものは、せいぜい五千円か多くて一万円の商品券であつて、現金は一度も贈つていなかつたことが認められるのに、昭和三十五年十二月中旬頃に限つて従来の儀礼的贈答に較べて格別の差異があるとみられる十万円を而も現金で贈つたということは、たとえ被告人青沼の新居の新築祝の目的でなされたとしても、十万円という多額の金員を新築祝として授受するのは、被告人両名間における個人的友情関係を考慮し、さらに被告人両名の職業上の地位、収入を参酌してみても、通常ではないというべく、また被告人小田は当公廷において判示第六の一記載の金員を被告人青沼の妻に渡したと供述しているのに対して、被告人青沼は当公廷で被告人小田から直接これを受取つた旨供述しておつて、右被告人両名の間に供述の差異がみられるのであつて、右のような事実を綜合すると、(第一回公判における被告人両名の供述を除く)被告人小田、同青沼の当公廷における各供述は納得し難い。

次に判示第六の二記載の事実については、第六回公判調書中被告人小田の供述記載部分によると、被告人小田は当公廷において、「第一回公判の際にそのとおり間違いない旨述べたのは、青沼が未だ勾留中であつたので、警察で述べたことと違つた事を述べれば、青沼が保釈にもならないと思つたからで、嘘の供述をしたものである。」旨供述するが、同被告人の本件第一回公判が開かれた当時においては同被告人は既に保釈出所して約十七日も経過していたのであるから、真実のことを法廷で述べ得る状態にあつたものと思われる。また第三回公判調書中証人小田守平の供述記載部分ならびに同人の検察官に対する昭和三十七年四月二十七日付供述調書によれば、判示第六の二記載の日時たる昭和三十六年八月下旬頃被告人青沼が株式会社一平本店に来て被告人小田等と話し合つた際、被告人青沼の相手をしたのは被告人小田およびその長男の小田守平だけであつたことが認められ、大坪一枝がその場に居合わせて話の相手になつたということは、右の各記載には全然現われておらず、被告人小田、同青沼の捜査官に対する各供述調書には、当日被告人青沼の相手をしたのは被告人小田のほかは右小田守平と城明であるとの記載は見られるが、大坪一枝がその場に居合わせたとの記載はどこにも見当らないのに、第九回公判調書中証人大坪一枝の供述記載部分によると同証人は当公廷において、被告人小田や小田守平は途中で席を外すことはあつたが、被告人青沼が帰るまで自分はその場に同席していて席を立つたことはなかつた旨供述するのであるから、もし右の供述が事実だとすれば、被告人小田、同青沼、小田守平の捜査官に対する各供述調書中には当然大坪一枝の名が出てくるべき筈であつたと思われるのであるが、右各調書に大坪なる氏名が全然出ていないところからしても、右証人大坪一枝の証言は到底信用しがたいものである。

右のような事実を綜合考察すると、被告人小田から昭和三十六年八月下旬頃同被告人方自宅において被告人青沼に対する現金十万円の授受がなかつたという被告人小田、同青沼の当公廷における各供述は納得しがたく、右金十万円の被告人両名間の授受の趣旨については、前記金員授受の趣旨について検討したところがそのまま妥当するのであつて、結局右被告人両名の融資の関係による特殊事情を考慮するときは、右被告人両名の前掲各供述調書の信憑性を認めることができる。

これによれば被告人小田が判示第六の一、二記載の趣旨で被告人青沼にその各金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知りながら右各金員を収受した事実を認めるに十分である。

七、被告人百瀬と被告人青沼の間の金員授受の趣旨について。

この点に関し第六回公判調書中被告人百瀬の供述記載部分によると、被告人百瀬は当公廷において、「昭和三十四年八月中旬頃十万円を青沼に贈つたのは、昭和三十年頃松本信用組合の創設者であつた祖父百瀬興政の墓石にきずが入つたという事で松本信用金庫の青沼等が建てかえてくれたので、その心尽しに対するお礼をしなくてはと思つていたところ、青沼が同金庫の専務理事になつたので差し上げたものであり、昭和三十五年十月下旬頃の現金十万円は、青沼との親交から単なる新築祝として贈つたものである。」と供述し、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人青沼は当公廷において、「(昭和三十四年)八月頃百瀬が自宅へのし袋に水引きをかけた紙包を持つてきたとのことで、自分の子供が受取つたのを帰宅して聞き、紙包を開いてみたら十万円の金が入れてあつたので、翌朝金庫へ出勤して電話で百瀬の会社へかけたところ、百瀬は祖母や墓の事で特にお世話になつたのに何の事もしていないし、理事に当選したそうでお目出度、何かのたしにしてくれというので受取つた。三十五年の十月末頃百瀬が自宅の建築工事場に来て気持だけのお祝だと云うので受取る気になつたが、早目にお祝に合せてくれたかなと思つた。」旨供述する。しかし被告人百瀬の検察官に対する昭和三十七年四月十九日付供述調書では、「松本倉庫とそれに隣接する工場ならびにその敷地たる土地一万坪の買受代金として二千七百万円を私、野口[言甫]一、野口甫名義で松本信用金庫から借りたが、その支払ができないのでその金の返済を延ばして貰い、私、義父、義兄の借入金の書換えをして貰つたお礼や、これから先も延ばして貰いたいという趣旨で十万円宛二回に計二十万円を青沼に贈つた。」との供述があり、被告人青沼の検察官に対する同月二十三日付供述調書にもほぼ右趣旨に照応する供述がある。

なるほど被告人百瀬の祖父百瀬興政が松本信用金庫の前身松本信用組合の初代理事長であつて、被告人青沼が同人に仕え右興政の家にも出入し、被告人百瀬とも交友関係を深め、また昭和三十一年頃からは互に猟友会仲間として交際していた関係にあつたことは被告人両名の当公廷における供述よりこれを認めることができるが、被告人百瀬の祖父たる亡百瀬興政の墓石の修理についても、その費用は松本信用金庫負担でなされたものであつて、被告人青沼等が個人で支出したものではなく、被告人青沼の心尽しには感謝していたであろうことは十分推察されるが、これをもつて又は後記のような新築祝として、一回につき十万円という多額の金員を授受するには、たとえ被告人両名間に右のような特殊な個人的関係があつたとしても、また被告人両名の職業上の地位、収入を考慮しても、他に相当の理由がなければならない筈である。しかるに前掲各証拠によれば被告人百瀬、同被告人の義父たる野口[言甫]一および義兄野口甫名義で分散して岡谷組として松本信用金庫から融資を受けた計金二千七百万円の返済の延期方に関し好意ある取計らいを受けていたことが明らかであるから、これに対する謝礼の趣旨で被告人百瀬と被告人青沼間に金員の授受が行われたとすれば、一回に十万円の金員の授受が行われた理由は首肯される。しかも被告人百瀬の検察官に対する同年四月十九日付供述調書には、「新築祝には、猟仲間として他の仲間と一緒に招待されたので、純粋なお祝として壁かけ五千円のものを持つて行つている。」との記載があることからしても、単なる新築祝として現金十万円を贈つたというのは不自然であつて納得しがたく、従つてこの分についても判示認定の趣旨のもとに授受されたことを否定することはできない。

八、被告人林と被告人青沼間の金員授受の有無およびその趣旨について。

この点に関し、第一回公判調書中被告人林の供述記載部分によると、被告人林は第一回公判の当公廷において、「起訴状記載の公訴事実中経歴および第一の一乃至七記載のとおり各金品を贈つた事はそのとおり間違いないが、単なる社交儀礼の範囲内のものとして贈つた。」旨供述したが、その後その供述を変更し、判示第八の一乃至五の事実については依然として各金品を贈つた事はこれを認めたが、その後の第六回公判調書中被告人林の供述記載部分、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、右被告人両名は昭和三十五年十二月二十五日頃新住家転居祝名義で現金五万円の授受がなされたことと、昭和三十六年九月十五日頃商品券三冊(額面合計三万円)の授受があつたとの公訴事実につき、そのような授受はないとか記憶がないという供述にいずれも変つており、この点については後記無罪の理由二、において説示するように犯罪の証明がないものとして結局無罪の言渡をするので、この点を除いて被告人両名が金員授受の事実を認める判示第八の一乃至五の事実についての金員授受の趣旨について検討する。第六回公判調書中、被告人林の供述記載部分によると、被告人林は当公廷において、「昭和二十八年二月、はじめて、松本信用金庫本町支店と取引した当時は、高利貸からの借金でどうにもならない状態であつたのに、当時の支店長であつた青沼に事情を打明けて援助を受け、融資が得られて会社が発展するようになつたので、恩を感じていたところ、青沼が家を新築するという話を聞いて、昔の恩の万分の一でも返したいという気持から最初の五万円を贈り、その後の商品券はいずれも本当のお礼の気持だけで渡したものである。」と供述し、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、被告人青沼は当公廷において、「林は最初本町支店との取引を始め、その後も引続き同支店との取引で、本店と直接の取引は全然ない。従つて本店の営業部長になつてからは林と貸付についての関係は全くない。建築祝を頂いたときは、専務になられ二重の御目出度ですが、これは気持のしるしですからと云つて帰られた。その後の商品券の授受もいずれも融資のお礼ではない。」と供述する。しかし被告人林の検察官に対する昭和三十七年五月二日付供述調書では、「昭和二十八年に当時の本町支店長青沼に事情を打明けて頼んだところ、青沼が三十万円の融資を受けられる様にしてくれた。その後青沼は本店に帰つて常務理事や専務理事となつたが、大口の貸付については支店から本店に禀議書が行き、常務や専務の決裁で、貸付が決定するという事は知つていた。昭和三十五年三月頃青沼が新しく住宅を新築するという事を聞いたので、現金を差上げるなら新築祝という事で差上げれば、青沼も受取つてくれると思い、同年六月頃のし封筒に五万円入れ、お祝と書いて持つて行つた。この金は昭和二十八年以来融資の事について青沼から世話になつており、現在迄融資を続けて来て貰つたお礼と、今後また引続いて融資をして戴き、従来通りの便宜を計つて貰いたいという気持を表わすために新築祝という事にして持つて行つた。その他の商品券は青沼から融資の事でかねがねお世話になつてるお礼と今後もよろしくという気持で持つて行つた。」旨の供述があり、また被告人青沼の検察官に対する同月四日付A供述調書では、「昭和三十五年六月頃の現金五万円は、林としても長い間融資について世話をして来たお礼と今後もよろしく願いますという気持で持つて来たものと思う。その他の商品券を貰つたのは、普通は五千円程度のもので、このように程度を超えた中元や歳暮を持つてくるのは、やはり長い間融資をして来たお礼と今後もよろしくお願いしたいという気持から持つて来たものと思う。」旨の記載がある。

なるほど前掲各証拠によれば、林興業株式会社が松本市内の金融業者からの高利に苦しめられてどうにもならない状態にあつた昭和二十八年二月頃松本信用金庫本町支店から当時同支店長の地位にあつた被告人青沼の尽力により三十万円の融資を得て、右会社が再生の途を辿り、現在のような大をなすに至つたことが認められ、これに対して被告人林が被告人青沼に感謝の念を抱いていたことは十分に窺えるが、他方被告人林に対する松本信用金庫の貸付も多額の金額になつていたもので、同会社が現在のような規模にまで拡張するについては、同金庫からの融資が大きな役割を果したこともまた否定し得ないところであり、また被告人林(又は林興業)に対する貸付は当初から同金庫本町支店の扱いではあつたが、本件各金員は被告人青沼が同金庫の本部役員たる専務理事(又は代表理事)当時に被告人林との間に授受されているものであつて、被告人青沼が同金庫の役員となつてからは、同金庫が被告人林(又は林興業)に対するようないわゆる大口貸付をするに際しては、当然に被告人青沼のような同金庫の役員がその審査に加わる位の事は被告人林も了知していたものと思われるし(被告人林の前掲検察官に対する供述調書にはその趣旨の記載がある)、また本件各金員の授受は判示第八の一の金五万円の場合を除いてはいずれも盆暮の時期になされているが、その金額は一回に商品券二冊(二万円)乃至三冊(二万五千円)であつて、一回に右の各金員を授受するのは、感謝の気持があつたとしても、右被告人両名の職業上の地位、収入等を考慮に入れても中元又は歳暮という一般社交儀礼としては通常ではないものというべく、また新築祝として五万円という相当多額とも見られる金員を授受するについても、他に相当の理由がなければならないところ、右被告人両名の間に特殊な個人的関係があつたとの証拠は全くなく、而も被告人青沼はその新築家屋の宴にも被告人林を招待したという事実はないので、結局右被告人両名の融資上の関係による特殊事情を考慮するときは、(後記無罪の言渡をした部分を除いては)被告人両名の前掲各供述調書の信憑性を認めることができる。これによれば被告人林が判示第八の一乃至五記載の趣旨でその各金員を供与し、被告人青沼が右のような趣旨で供与されるものであることを知りながら右各金員を収受した事実を認めるに十分である。

九、被告人等の捜査官に対する供述調書の任意性について。

被告人等およびその弁護人中には、右被告人等の捜査官に対する各供述調書の任意性に疑いがあるとの主張をしているものがあるので、その任意性の有無について按ずるに、当裁判所において検察官の申請により取調べた当時被告人等の本件各事件につき捜査を担当してその供述調書の作成にあつた各警察官の当公廷における各証言中に見られる被告人等の当時における供述態度、当該供述調書における被告人等の署名押印が任意になされたことおよびその供述調書の記載内容自体ならびに被告人等の自白がいずれも取調開始後僅かの日をおいてなされている点等を証人塩沢智礼等各警察官の各証言に併せ考えれば、右被告人等の警察官の取調につき強制等があつたため自白をしたというが如き供述は到底信用することを得ず、被告人等の検察官に対する供述調書についてもその任意性を疑わしめるような資料は見当らないので、結局被告人等の捜査官に対する各供述調書はいずれもその任意性を肯定すべきものと認められる。

(被告人鄭の判示第五の一乃至六の事実と刑法第四十五条後段の併合罪の関係にある確定裁判を経た罪)

被告人鄭は長野地方裁判所諏訪支部において贈賄被告事件にて懲役六月、三年間執行猶予の判決の言渡を受け、同被告人より東京高等裁判所に控訴中のところ、昭和三十九年一月十七日右控訴の申立を全部取下げ、同日該裁判が確定したものであつて、右の事実は被告人鄭の東京高等裁判所第七刑事部に対する証明願とそれに添付の同部裁判所書記官のその旨の証明によつて認められる。

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人青沼、同望月の判示第一の商法違反の各所為は各商法第四百九十一条後段、刑法第六十条に、被告人深沢の判示第二の一の(1)乃至(6)、二の(1)乃至(4)の各所為、被告人中野、同小野の判示第三の一乃至六の各所為、被告人中野、同小野、同春日の判示第四の所為はいずれも経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第五条第一項、第二条前段、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第三号、刑法第六十条に、被告人鄭の判示第五の一乃至六の各所為、被告人小田の判示第六の一、二の各所為、被告人百瀬の判示第七の一、二の各所為、被告人林の判示第八の一乃至五の各所為はいずれも経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第五条第一項、第二条前段、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第三号に、被告人青沼の判示第九の一乃至七の各所為、被告人望月の判示第十の各所為、被告人青沼の判示第十一の一乃至四の各所為、被告人望月の判示第十二の一の(1)乃至(5)の各所為はいずれも経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第二条前段に、被告人望月の判示第十二の二の業務上横領の所為は刑法第二百五十三条にそれぞれ該当するところ、被告人鄭には前示のような確定裁判を経た罪があつて、該確定裁判を経た前示贈賄罪とその裁判確定前に犯したと認められる同被告人の判示第五の一乃至六の各所為とは刑法第四十五条後段の併合罪であるから、同法第五十条により更に裁判を経ない罪たる本件判示第五の一乃至六の各所為につき処断すべきものとし、被告人青沼、同望月については、判示第一の所為につきその所定刑中懲役刑を選択し、また被告人深沢、同中野、同小野、同春日、同鄭、同小田、同百瀬、同林については、いずれも右各所為の所定刑中懲役刑を選択し、以上の被告人青沼の判示第一、第九の一乃至七第十一の一乃至四の各罪、被告人望月の判示第一、第十、第十二の一の(1)乃至(5)および二の各罪、被告人深沢の判示第二の一の(1)乃至(6)および二の(1)乃至(4)の各罪、被告人中野、同小野の判示第三の一乃至六および判示第四の各罪、被告人鄭の判示第五の一乃至六の各罪、被告人小田の判示第六の一、二の各罪、被告人百瀬の判示第七の一、二の各罪、被告人林の判示第八の一乃至五の各罪はそれぞれ刑法の第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文、第十条により、被告人青沼については最も重いと認める判示第一の商法違反の罪の刑に、被告人望月については同じく最も重いと認める判示第十二の二の業務上横領の罪の刑に、被告人春日、同青沼、同望月を除くその他の被告人等についてはいずれも犯情最も重いと認める、被告人深沢については判示第二の一の(1)の罪の刑に、被告人中野、同小野については判示第四の罪の刑に、被告人鄭については判示第五の二の罪の刑に、被告人小田については判示第六の一の罪の刑に、被告人百瀬については判示第七の一の罪の刑に、被告人林については判示第八の一の罪の刑にそれぞれ法定の加重をした刑期範囲内において(被告人春日についてはその所定刑期の範囲内で)、被告人青沼を懲役二年に、被告人望月を懲役一年に、被告人深沢を懲役四月に、被告人中野、同小野を各懲役八月に、被告人春日を懲役三月に、被告人鄭を懲役八月に、被告人小田を懲役五月に、被告人百瀬を懲役五月に、被告人林を懲役四月にそれぞれ処し、被告人青沼を除くその他の被告人等には同法第二十五条第一項を適用して、この裁判確定の日から、被告人深沢、同中野、同小野、同春日、同鄭、同小田、同百瀬、同林に対し各二年間、被告人望月に対し三年間いずれも右各刑の執行を猶予し、押収にかかる物件のうち夏背広上下および合背広三ツ揃各一着(昭和三七年押第三一号の一〇一、一〇二)は、被告人望月が判示第十二の一の(4)および(5)の各所為によりいずれも日本養魚飼料株式会社取締役社長山崎昌次から収受した賄賂であるから、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第四条前段によりその収受した賄賂としてこれを没収し、また被告人青沼からは、判示第九の一乃至七および判示第十一の一乃至四の各所為によりその収受した賄賂を全部没収することができないし、被告人望月からも、判示第十および判示第十二の一の(1)乃至(3)の各所為によりその収受した賄賂を全部没収することができないから、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第四条後段によりその収受した賄賂の価額として、被告人青沼から金二百二十八万円を、被告人望月から金六万円をそれぞれ追徴し、訴訟費用については刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を、なお連帯負担の点について同法第百八十二条を適用して、主文第五項掲記のとおり被告人青沼、同望月、同深沢、同中野、同小野、同春日、同鄭、同小田、同百瀬、同林にこれを負担させることとする。

(無罪の理由)

一、被告人野口、同藤本に対する本件公訴事実として、被告人野口金一郎は松本市芳野町所在大栄産業株式会社の取締役(会長)、同藤本嘉優は同社代表取締役で、何れも同会社の事業全般の経営に当つているものであるが、被告人野口、同藤本は共謀の上、昭和三十六年十二月二十八日頃同市下横田町三百九十二番地の料理店鯛万こと山田長蔵方において被告人青沼に対し、大栄産業株式会社が松本信用金庫より多額の貸付融資を受けたことについて、被告人青沼の同金庫専務理事又は代表理事としての職務上より種々便宜な取計らいを受けたことに対する謝礼並びに将来も同金庫理事長となつた同人の職務上より貸付等融資に関し同様便宜な取扱いを得たいとの依頼の趣旨の下に、被告人青沼の同金庫理事長就任祝の名目で、被告人野口より現金十万円を供与した点および被告人青沼に対する本件公訴事実中、被告人青沼は右記載の日時場所で同記載のように被告人野口等より供与された現金十万円を、その供与の趣旨を知りながら収受した点について

右公訴事実中、被告人野口、同藤本両名の身分および職務関係、右公訴事実記載の日時、場所で金十万円の授受のあつたことは、被告人野口、同藤本および同青沼ともに当公廷においてこれを認めて争わないが、金員授受の趣旨については右被告人等とも当公廷において強くこれを否認するところである。(ただ第一回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、同被告人は金員授受の趣旨についてもこれを認めてその通り間違いないという供述をしている。)

すなわち、被告人野口は、「青沼に贈つた現金十万円はのし袋に入れて持つて行つたが、藤本に十万円を出してくれと云つたのはその当日である十二月二十八日であつて、この金は長野県信用組合松本支店で受取つた。のし袋の表には同組合松本支店次長の太田定章から、お祝とか寸志と書いて貰い、鯛万の二階の階段を降りたところで、私の気持だからお祝として受取つてくれといつて青沼に渡したら、青沼は辞退されたが、弟に小遣銭をくれるような気で渡した。自分個人の青沼に対する友情として贈つたもので、大栄産業には関係のないことだからお礼の意味も感謝の意味もない。藤本からの申出に対しては、青沼に大栄産業としてお祝などやる必要がないといつて断つた」旨を供述し、被告人藤本は、「昭和三十六年十二月頃野口から十万円位用意してくれないかという話があつたので、大栄産業から十万円を出させたが、その十万円が青沼に渡されるということは全然知らなかつた。後に至つて野口から青沼に対し理事長の就任のお祝いとして贈つたことを聞いた様に思う」旨を供述し、被告人青沼も、「野口を知つたのは三十年前の事で、長野県信用組合長であつて、日頃単なる知友人でなく信頼するよき指導者と思つて深交を続けてきた。

昭和三十六年十二月二十八日鯛万へ出かけ、帰る途中、廊下で野口が後から呼び止め、本来なら自宅へ伺わなくてはならないが、理事長就任のお祝いで心ばかりであると云つて贈られたので、辞退したが、野口は、個人として何か品物で記念品とも思つたが、受取つて何かの足しにして貰いたいというので、場所柄もあり受取つた。帰宅して包紙を明けてみたら、のし紙の表に御祝と書き野口金一郎と書いてあり、中に十万円が入れてあつた」旨を供述する。

この点に対し被告人藤本が被告人青沼に対し直接自ら金員を供与したという主張もしくは立証は全くないから、被告人藤本については問題は被告人藤本が被告人野口と被告人青沼に対し金十万円を贈賄することを共謀したかどうかにかかつている。

そこで先ず被告人野口、同青沼の捜査過程における供述についてみるに、被告人野口の司法警察員に対する昭和三十七年四月十一日付供述調書に、「昨年(昭和三十七年)の十二月末社長の藤本が私の自宅へ来たとき、近々のうちに青沼が理事長になつたお祝をするが、大栄の方でもお祝いをしたらどうだ。(中略)このとき私が十万円位贈ろうじやないかという事で十万円を贈る事に決つた訳で、金の支出は大栄産業の金で贈ることにした。(中略)贈る時期も丁度青沼が理事長就任のお祝として鯛万で一席設けることになつたので、その席で贈ることにした。(中略)そのお祝を私個人でしてやろうと思い、友人の伊部政隆に青沼の都合のよい日を連絡してくれと云つておいた。(中略)十二月二十六、七日ころ信組の松本支店から大栄産業へ電話をして十万円を持つてくるように云つたところ、床尾勝義が松本支店へ持つて来たので受取つた。(中略)松本支店で水引のかかつたのし袋に現金十万円を入れて御祝とし、その下へ野口としたか藤本としたか確かな点ははつきりしないが、墨字で私が書いてそののし袋を内ポケツトに入れた」旨の記載があつて、これによれば被告人青沼に対する職務ということも見られないではないが、のし袋に被告人野口自らが御祝、野口又は藤本と書いたというのであるから、その関係よりは同被告人の理事長就任のお祝という個人的関係に重点がおかれて金員を贈つたのではないかというようにも見られ、つぎに被告人野口の検察官に対する同年四月十七日付第一回供述調書に、「当時信用金庫の専務理事をし、理事長の公保の逝去の後同金庫の理事長の仕事をしていた青沼に会つて大栄産業への山代金の融資をお願いした。(中略)そこでこのような(二千万円の)大口の融資をしてくれた事について青沼に何等かの形でお礼をしたいと考えていた。その後十二月になつて青沼が信金の理事長になつたので、(中略)理事長になつた御祝をしてやろうと思い伊部政隆を通じて都合をきかせた。藤本が私宅に来た時に近い内に青沼が理事長になつたお祝をするが、大栄の方でも、お祝をしたらどうかといつたら、藤本も前に大口融資を受けたこともあり、これからも世話になる事だからいいでしようといつたので、十万円位贈ろうじやないかといつたら、藤本も賛成してくれた。(中略)青沼が階段を下り階下離れから玄関に行く廊下を歩いている時に、青沼の後から用意していた紙包を出して、これは大栄からのお祝だが受取つておいて貰いたいと差出した。青沼にこの金を渡すについて同君が理事長になつたお祝の意味もあつたが、大栄産業の金融の事でお世話になり、その上理事長になられた後も引続いてお世話になりたいので、その御礼の意味も含めて差し上げた。」旨の記載があつて、ここにおいては被告人青沼に対する職務に関する金員供与の趣旨が強くあらわれており、さらに被告人野口の検察官に対する同年四月二十日付第二回供述調書には、「十二月二十八日藤本が信用組合松本支店へ金を持つてきたが、会長の私が居ないので、支店長である藤本の実兄藤本裕一にその金を預け支店を出た処で私に会つたという事で、金は藤本裕一が私達の前に持つて来た。粗末なのし袋に入れてあつたので、水引きのかかつたのし袋に入れることにし、太田次長に頼んで、お祝大栄産業株式会社と毛筆で書いて貰い、それを私が受取つた。」旨の記載があつて、被告人野口は右金十万円を床尾勝義から受取つたというのがこの調書では右藤本裕一が持つて来たという様に変り、またのし袋にお祝と書いた墨筆の下に被告人野口自ら野口とか藤本という個人名を書いたのが、太田次長に頼んで大栄産業株式会社と書いて貰つたという様に変つている。他方被告人青沼の司法警察員に対する同年四月八日付供述調書に、「昨年(昭和三十七年)十二月頃野口から電話で今晩夕食を差し上げたいから鯛万へ出かけてもらいたいと誘いを受けた。(中略)帰ろうとしたところ、野口は廊下へついて来て、いろいろ世話になつていながら御無沙汰していて、(青沼にも)理事長としてなにかと大変だろうが、これは私の気持だからとつておいてくれと私のポケツトへ無理に紙包を押し込むので、そのままいただいて帰宅した帰宅して開いてみたところ、のし紙に水引きをかけ、お祝野口として、中には一万円札十枚が入つていた。」旨の記載があつて、これによれば被告人青沼は被告人野口個人から金十万円を松本信用金庫の理事長になつたことのお祝として直接受取つたという事に重点がおかれているように見られ、被告人藤本の名前は全然出ていないのに、その後になつて同藤本の名が現れ、また被告人青沼の検察官に対する同年四月十八日付供述調書には、「昨年十二月二十五日頃野口から電話で理事長にもなつたし一緒に夕食をしたいから時間をあけてくれという話があつた。(中略)鯛万の階段を下りたところまで来たとき、野口が後から追いかけてきて上着の右のポケツトに何か袋を入れて、いろいろお世話になり乍ら御無沙汰をしていて(青沼も)理事長となつて何かと大変だろうが、これは私の気持だから、まあ体に気をつけてしつかりやりなさいといわれた。(中略)野口はまあまあ個人的なものだからといわれるので、丁寧にお礼を云つてもらつておいた」旨の記載があり、さらに同被告人の検察官に対する同年四月二十日付供述調書は、「そののし袋の表の方にはお祝という字と、下の方に野口と書いてあつたか、大栄産業と書いてあつたかその点いずれとも記憶はないが、いずれも墨で書いた字であつた」旨を記載しており、被告人青沼の職務に関する謝礼の趣旨で授受されたともとれるし、また同被告人の個人的関係で金員の授受がされたようにも見られ、さらに右のし袋の下の文字の記載についても極めて瞹昧な自供に変つている。

また被告人藤本の検察官に対する同年四月十七日付第一回供述調書には、「昨年五月松本市入山辺の官行造林の売却があつた時、これを大栄産業で落札し、資金が入用になり、松本信用金庫等を廻つて融資の懇願をした。入札当日大栄産業に落札となつたので、早速信用金庫に行き望月(営業部次長)や山岸(常務理事)に会つて融資の懇請をした結果、二千万円の融資を受けることになつた。」旨の記載があつて、右公訴事実で問題となつた昭和三十六年五月頃の大栄産業株式会社への金二千万円の融資は、被告人藤本より松本信用金庫の山岸常務理事および望月営業部次長に依頼して受けられたものである旨を捜査過程において供述しており、第四回公判調書中被告人藤本の供述記載部分によると、被告人藤本は当公廷においても右山岸、望月に依頼して松本信用金庫より金二千万円の融資を受けた旨供述している。

右のような被告人野口、同青沼の各供述の複雑さを理解するには、被告人野口と被告人青沼ならびに被告人野口と被告人藤本の特殊関係等の事由を考慮する必要がある。

第四回公判調書中被告人野口、同藤本の各供述記載部分、第七回公判調書中被告人青沼の供述記載部分、第三回公判調書中証人床尾勝義の供述記載部分によれば、被告人野口と同青沼の交友関係は三十年も前から続き、被告人青沼が松本信用金庫本町支店長をしていたとき、被告人野口は長野県信用組合松本支店長をして、互に道路を距てた場所(店舗)で勤務した事があつて、会合の席等でも一緒になつた事が多く、その交際についても被告人野口は被告人青沼を青さんといい、被告人青沼は被告人野口をおやじさんと呼び合う仲であり、被告人青沼が松本信用金庫の理事に当選し、専務理事、理事長と就任する都度、被告人野口は被告人青沼のためにその就任祝をするに際し多くの関係友人を代表して発起人になつていたもので、両被告人は特殊な友人関係にあつたこと、昭和三十六年十二月末頃伊部政隆から電話で被告人野口が理事長就任祝の席を設けたいと云つているからと被告人青沼の都合を聞いた上、同月二十八日鯛万にて開かれた右理事長就任祝の宴に出席して帰る途中の被告人青沼を廊下で被告人野口が呼び止めて本件金員が贈られたものであること、本件金員は被告人野口が大栄産業株式会社に時貸があつたところからこれを取り寄せたものであること、本件金員が右大栄産業から出たところから、同会社の社長である被告人藤本は日常恩顧を受けている(同会社の取締役である)同被告人の恩人である被告人野口の身を案じて、被告人野口に万一の事があつてはならないと考え、その身代りとなるべく詰らぬ細工を弄して右金員の支出を記載したとみられる同会社の裏帳簿を隠匿したり、一部を書き換え又は偽りの供述をしたり等して、被告人藤本がやつたことであると申し述べたことから、複雑した供述となつて混乱を生ぜしめたこと、大栄産業株式会社は松本信用金庫より本件で問題となつた金二千万円の融資を受けたその以前からも同金庫より度々多額の金員の融資を受け、これを返済していたが、該融資に関して被告人青沼に対しては謝礼をしてはいなかつたこと、右金二千万円の融資の交渉についても、被告人藤本は被告人青沼にはこれを依頼していないこと、右金二千万円の融資は昭和三十六年六月頃受けているものであるが、その融資を受けたことに対する謝礼を約半年も経過した同年十二月末になつてするというのは不自然であると思われること、被告人青沼は本件金員の贈与に対し、暮のことでもあつたとして被告人野口宅に金五千円位の商品券を届けて同被告人個人に対し返礼の歳暮を贈つたことを認めることができる。

以上の諸点よりして、本件金員の贈与は、右被告人等が当公廷で述べているように、被告人青沼の職務に関してなされたものでなく、被告人野口個人より被告人青沼の松本信用金庫理事長就任祝としてなされたものと認めるのが相当である。そして被告人野口より被告人青沼になされた本件金十万円の贈与が右理事長就任祝として贈られたものである場合、その金額が多過ぎはしないかという疑いも抱かないではないが、第十一回公判調書中証人増田甲子七の供述記載部分(被告人野口に対する関係においては同証人の当公廷における供述)ならびに被告人野口の社会的地位、資力、財力と被告人青沼の松本信用金庫理事長としての地位ならびに同被告人との間における従来の交友関係を考慮するときは、右の金額は理事長就任祝という社交上の儀礼としての贈物として不当に多額のものでないことが認められる。

されば本件金十万円の供与、受供与に関する右被告人等の前掲捜査官に対する各供述調書は信憑性がないものといわなければならないから、これを証拠とすることはできない。その他本件について取り調べた証拠によつても、被告人野口、同青沼に対する右各公訴事実はこれを認めることができないし、右被告人両名につき右各公訴事実を認め得ない以上、被告人野口と共謀の上被告人青沼に本件金員を贈賄したと検察官が主張する被告人藤本についても右公訴事実を認めることができないことになるのは、蓋し当然の帰結であるというべきである。

以上の理由により被告人野口、同藤本および同青沼に対する前記公訴事実は犯罪の証明がなく、刑事訴訟法第三百三十六条後段によりこの点につき右被告人等三名に対し無罪の言渡をする。

二、被告人林、同青沼に対する本件公訴事実中、被告人林は昭和三十五年十二月二十五日頃被告人青沼方において、同被告人に対し、林興業株式会社が松本信用金庫本町支店より貸付等融資を受けるについて、被告人青沼の職務上より種々便宜な取計らいを受けたことに対する謝礼並びに将来も同様の取扱いを得たいとの依頼の趣旨の下に新住家転居祝名義で現金五万円を、昭和三十六年九月十五日頃右同所において、同被告人に対し、前記同様の趣旨の下に井上百貨店の商品券三冊(額面合計三万円)をそれぞれ供与し、被告人青沼は、被告人林より供与された金五万円並びに商品券をその都度いずれも供与の趣旨を知りながら収受した点について。

第一回公判調書中被告人林、同青沼の各供述記載部分によると、同被告人等はいずれも右金五万円および商品券三冊の授受の日時、金額等その通り間違いないという供述をしたが、その後の第六回公判調書中被告人林の供述記載部分、第八回公判調書中被告人青沼の供述記載部分によると、同被告人等はいずれも右金員および商品券の授受はないとか記憶がないという供述をしている。

ただ被告人林の検察官に対する昭和三十七年五月二日付供述調書および被告人青沼の検察官に対する同月四日付A供述調書には、被告人林が昭和三十五年十二月二十六日頃松本信用金庫本町支店次長の吉村一成と一緒に同人に案内してもらつて被告人青沼方に行き、被告人青沼に会つて右公訴事実記載のような現金五万円を供与し、被告人青沼において右金員の供与を受けたことを認めた記載と、被告人林が昭和三十六年九月十五日頃松本信用金庫本町支店より同月十二日に三百万円の融資を受けたお礼として被告人青沼宅へ井上百貨店の商品券三万円を持つて行つて供与し、被告人青沼において右商品券の供与を受けたことを認めた記載がある。

しかしながら被告人林、同青沼の前記各供述記載部分及び第九回公判調書中証人吉村一成、同市川広覚の各供述記載部分によると、吉村一成は昭和三十五年十二月二十六日頃被告人林と一緒に被告人青沼方に赴いたことはなかつたとし、同人が警察官から取調べを受けた当日は、勤務を終えて帰宅後自宅で飲酒し、酔つて寝たところを同日午後八時半過ぎ頃起され、松本警察署に出頭して取調べに応じたものであつて、酔いが充分さめないときに警察官に責められて心ならずも事実に反したことを述べたと供述し、なお被告人青沼の保釈出所後の昭和三十七年六月十日頃被告人青沼が病気のため寝ていると聞いて、他の松本信用金庫に勤務する同僚等とともに同被告人宅に同被告人の病気見舞に赴いた際、右吉村が警察官に対して事実に反した事を述べて調書に記載されたことにつき申訳ないと被告人青沼に詫びたところ、同被告人から済んでしまつたことは仕方がないと云われたことがあつたが、その際右吉村等に同行した同僚の一人である市川広覚が右の事実を見聞していたこと、被告人林も吉村とは被告人青沼方に同行したことは一度もなかつたことが認められる。右のような事実からみると、昭和三十五年十二月二十六日頃右吉村一成が被告人林を被告人青沼方に案内しなかつたのではないかとの多大の疑問が抱かれる。また判示第八の一および三記載のように、同年六月中旬頃被告人青沼方において、被告人林が被告人青沼に新築祝名義で現金五万円を、また同年十二月二十日頃同じく歳暮名義で商品券三冊を各供与してあるのに、特に後者の歳暮名義で供与した日より数日後の同年十二月二十六日頃に被告人林が新居移転祝名義で、金五万円もの現金を被告人青沼方に持参するということはきわめて不自然であるといわなければならない。

また昭和三十六年九月十五日頃供与されたという額面三万円の商品券三冊についても、判示第八の二記載のように、その前月である同年八月八日頃被告人青沼方において被告人林が被告人青沼に中元名義で商品券二冊を供与しているのに、その約一ヶ月後に重ねて贈るということは特に贈る必要性があるという何かの理由がなければ考えられないところであり、更に第六回公判調書中被告人林の供述記載部分によると、被告人林が井上百貨店から取寄せた商品券については必ず全部同百貨店の領収書を受領し、これらの領収書はいずれも前記林興業株式会社の領収書綴に綴つていることが認められるが、押収にかかる同会社の領収書綴およびその他の書面を精査しても、被告人青沼に対する昭和三十六年九月十五日頃の井上百貨店の商品券三冊の供与に符合する商品券が井上百貨店から購入された形跡がない。したがつて被告人林が被告人青沼に供与したと検察官が主張する右商品券三冊の金員が、どのような資金から出されたものか不明であり、このことは被告人青沼に対し右商品券三冊が供与されたという事実のうえにも重大な疑問を抱かせるものであつて、被告人林、同青沼の前掲検察官に対する各供述調書および第一回公判調書中被告人林、同青沼の各供述記載部分のみによつて右金員および商品券供与の事実を認めることはきわめて困難であるといわなければならない。

その他被告人林と被告人青沼との間で右金五万円および商品券三冊(額面合計三万円)の授受が行われたことを認めるに足りる証拠はないから、右被告人両名に対する前記公訴事実は犯罪の証明がなく、刑事訴訟法第三百三十六条後段によりこの点につき右被告人両名に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 柳原嘉藤)

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